アーニー・ギュテレスがキュー作りを始めたのは、ジョージ・バラブシュカがキュー作りを始めた僅か2年後であり、その8年後にはガス・ザンボッティがキュー作りを始めた。
それ故自身のキューの他に、バラブシュカとザンボッティのリペアも請け負っています。
ジナキューは映画にも登場しており、「アメリカン・プレジデント(原題)」に主演するマイケル・ダグラスから大統領にふさわしいキューだと選ばれました。
1970年代に一時キュー製作から離れていたものの、1988年に復活。
貴金属をふんだんに使用した高級感と、そのプレーアビリティの高さから、1970年代初頭には、多くのトーナメントプレイヤーが争ってこのジナキューを使用していました。
現代でもプレイヤー、コレクターの間でともに人気の高いカスタムキューとなります。
アーニーの父は木工職人で趣味で楽器作りをしていました。
木工芸術への関心と知識を持ち、ビリヤードを楽しんでいたティーンエイジャーは、やがてキューの修理を始めます。
この時期の著名なキュー職人はロサンゼルスのハーベイ・マーティンや、シカゴのハーマン・ランボウ、ニュージャージーのフランク・パラダイスぐらいでした。
1962年の初め、アーニーが最初のキューを製作した日は、娘ジナが誕生して僅か6日後だったことから、彼は工房を”ジナキュー”と名づけました。
この頃キュー業界は映画「ハスラー」の影響もあって復活し、アーニーにとって難しい商売ではありませんでした。
1962年の終わりにリッチー・フローレンスがジナキューを携えてローカルトーナメントで優勝してから、注文が殺到したそうです。
この頃のジナキューは65ドル程度で売られていました。
しかし偉大なキューメーカーとしてその名を認められたいと考えていた彼は、単純なデザインの従来のキューにかわって、めずらしい素材と芸術的なデザインのキューを作れば売れるのではと感じていたそうです。
1966年、現在でも見劣りしないキューを作ったとき、そのキューを手にイリノイ州ジョンソンシティのトーナメント会場に赴き、キューを披露し人々を驚かせました。
200枚用意した彼の名刺は1時間で無くなったという話です。
60年代の終わりには、貴金属、宝石までも多様に使用したキューを作り、数千ドルという当時でも高価な値段で取引されていました。
顧客リストにはディーン・マーティン、フランク・シナトラ、サミー・デイビスJr、スティーブ・マックイーン、ピーター・フォークなど他にも多くの著名人が名を連ねていました。
70年代になると、スタイルとプレイアビリティが評判になり、多くのプレイヤーがジナキューを使うようになっていました。
カスタムキューメーカーとして彼は尊敬と賞賛を成し遂げたのです。
他の分野への興味と関心から、1973年にアーニーはキュービジネスを離れ、レースカーと航空機のデザイン・設計に没頭しました。
インディ500で走る彼の”Lola”の燃料噴射システムも手がけ、さらに産業器材を設計して、専門機械加工と溶接に関与しました。
いつかはまたキュービジネスに戻ろうと考えていた彼は、1988年にカムバックしました。
設計と製造での15年の経験を生かし、キュー製作の大部分の機械を自分でカスタマイズしました。
今でも多くのキューメーカーが見学に訪れる彼の工房は北ハリウッドにあり、現在もキュー職人として活躍しています。
-Blue Book of Poolより一部抜粋-