Gina”The Rasputin”
特級品!MAX仕様!
Gina
『バラブシュカ』や『ザンボッティ』と同時代の老舗カスタムキューメーカー『GINA』の代表作品である”The Rasputin”の新品です!!
更にはシルバートリム/シルバープレートというMAX仕様となり、素材にはエルフォリンが使用された2017年11月製作、Ginaキュー最新モデルとなります。
ジョイントカラー内側のシリアルの刻印はありませんが、フォアアームのサイン、バットキャップのシルバープレートロゴが“キラリ”と輝き「これぞGina!」と言わんばかりに見る者を魅了します。
現在、当店HP上で掲載中の「ピンクアイボリー:シルバートリム/ラスプーチン」も大変希少な逸品ですが、「新品」の本品Rasputinも希少なものです。
アーニー氏も本年で御年78才。本商品は特注にてオーダーした新品ですので、希少性/新品/特注と言う事で、お値段もググっと高額とはなりますが、「【新品】Gina”The Rasputin”Silver trim/Silver plate/Ebony」はまたとない逸品です。
◇Butt Sleeve
◇Forearm
◇Overall
◇Other
CUE DATA
Name Gina”The Rasputin”(Silver trim/Silver plate/Ebony) Performance ・オリジナルシャフト×2
・ジョイントピン 5/16-18 PilotedSpec New Goods Rank S
Curve Level S Bonus ・マッチングジョイント ファンシープロテクター 1B2S
・ウイットンGinaオリジナルケース 1B2S
Status GALLERY -Out of stock-
以下、Blue Book of Poolより
「アーニー・ギュテレスがキュー作りを始めたのは、ジョージ・バラブシュカがキュー作りを始めた僅か2年後であり、その8年後にはガス・ザンボッティがキュー作りを始めた。
それ故自身のキューの他に、バラブシュカとザンボッティのリペアも請け負っています。
ジナキューは映画にも登場しており、「アメリカン・プレジデント(原題)」に主演するマイケル・ダグラスから大統領にふさわしいキューだと選ばれました。
1970年代に一時キュー製作から離れていたものの、1988年に復活。
貴金属をふんだんに使用した高級感と、そのプレーアビリティの高さから、1970年代初頭には、多くのトーナメントプレイヤーが争ってこのジナキューを使用していました。
現代でもプレイヤー、コレクターの間でともに人気の高いカスタムキューとなります。
アーニーの父は木工職人で趣味で楽器作りをしていました。
木工芸術への関心と知識を持ち、ビリヤードを楽しんでいたティーンエイジャーは、やがてキューの修理を始めます。
この時期の著名なキュー職人はロサンゼルスのハーベイ・マーティンや、シカゴのハーマン・ランボウ、ニュージャージーのフランク・パラダイスぐらいでした。
1962年の初め、アーニーが最初のキューを製作した日は、娘ジナが誕生して僅か6日後だったことから、彼は工房を”ジナキュー”と名づけました。
この頃キュー業界は映画「ハスラー」の影響もあって復活し、アーニーにとって難しい商売ではありませんでした。
1962年の終わりにリッチー・フローレンスがジナキューを携えてローカルトーナメントで優勝してから、注文が殺到したそうです。
この頃のジナキューは65ドル程度で売られていました。
しかし偉大なキューメーカーとしてその名を認められたいと考えていた彼は、単純なデザインの従来のキューにかわって、めずらしい素材と芸術的なデザインのキューを作れば売れるのではと感じていたそうです。
1966年、現在でも見劣りしないキューを作ったとき、そのキューを手にイリノイ州ジョンソンシティのトーナメント会場に赴き、キューを披露し人々を驚かせました。
200枚用意した彼の名刺は1時間で無くなったという話です。
60年代の終わりには、貴金属、宝石までも多様に使用したキューを作り、数千ドルという当時でも高価な値段で取引されていました。
顧客リストにはディーン・マーティン、フランク・シナトラ、サミー・デイビスJr、スティーブ・マックイーン、ピーター・フォークなど他にも多くの著名人が名を連ねていました。
70年代になると、スタイルとプレイアビリティが評判になり、多くのプレイヤーがジナキューを使うようになっていました。
カスタムキューメーカーとして彼は尊敬と賞賛を成し遂げたのです。
他の分野への興味と関心から、1973年にアーニーはキュービジネスを離れ、レースカーと航空機のデザイン・設計に没頭しました。
インディ500で走る彼の”Lola”の燃料噴射システムも手がけ、さらに産業器材を設計して、専門機械加工と溶接に関与しました。
いつかはまたキュービジネスに戻ろうと考えていた彼は、1988年にカムバックしました。
設計と製造での15年の経験を生かし、キュー製作の大部分の機械を自分でカスタマイズしました。
今でも多くのキューメーカーが見学に訪れる彼の工房は北ハリウッドにあり、現在もキュー職人として活躍しています。」