TAD’s Custom Cueは、1963年にTad Kohara氏によって設立され、現在カリフォルニア州スタントンにあるCuemakerです。

 

Tad氏は、日本人移民の息子でカリフォルニアで生まれ育ちました。

1940年~広島キャビネット作りの勉強をしていましたが、1945年原爆によって学校は破壊され、1949年アメリカに戻り自動車整備士として生計を立てました。

懸命に働き、自分のガソリンスタンドを購入しました。

そして、1963年映画『ハスラー』後のビリヤードブームの最中、ロサンゼルスに『Tad’s Family Billiards』をオープンしました。

経験豊富な木工職人であるTad氏は、ハウスキューの修理のため旋盤を購入し、顧客のCueの修理を請け負うと同時にCueの制作をしていました。

最初のTad Cueは、半分にカットされたBrunswick・Titlistsにジョイントを追加したものでした。

その後、友人のHavey Martin氏の影響を受け、彼のCueと同様の作り方で、木材の加工からCueを制作し始めました。

Havey氏が引退した際に彼の備品を購入し、数年後『Tad’s Family Billiards』を売却し、本格的にCue制作を開始しました。

1960年~1970年代初頭のTad Cueは、GinaやPalmer、DocFryの影響が反映されています。

 

Tad氏は、実際にビリヤードプレイヤーではなかったため、Cueの性能などあまり知りませんでした。

Willie Mosconi氏、Jimmy Caras氏、Joe Balsis氏などのプロプレイヤーにアドバイスを求めながら、Cueを制作し続けました。そして、彼らのプレイアビリティーにより知名度が向上していきました。

また、Tad氏は、Willie Mosconi氏のビリヤードスクールのハウスCueの制作請け負っていました。

 

1963年~1977年まで、TAD Cueには、ロゴが入っていませんでした。

私たちが慣れ親しんでいる現在のロゴは、1978年に刻印が開始されました。

 

約25年間で4回の移転を行い、2000年に現在のカリフォルニア州スタントンに落ち着きました。

完全家族経営の工房で、バンパー以外のすべてを独自で制作しおり、パンタグラフは主に妻のSusie氏の担当でした。

そして、息子のFred氏が加わり、2013年Kohara氏の他界後、後継者としてTAD Cueを引継いで活躍しています。

Kohara氏の時代、年間制作本数は100本未満です。※現在の方が少数生産となっています。

-参考文献 Blue Book-

 

日本へも多くのTAD Cueが流通し、今なお愛され続けています。

日本にルーツを持つKohara氏の感性と日本人の感性に通じるものがあるようなノスタルジアを感じる不思議な魅力に溢れたTad Cueはこれからも愛され続けることでしょう。

お問い合せ